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「速く歩きたければ、一人で歩け。遠くまで歩きたければ、だれかと一緒に歩け」

メモ:「未来を変えるためにほんとうに必要なこと」(アダム・カヘン著)から « du pope : NAKANO
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ブリコラージュ(Bricolage)は、「寄せ集めて自分で作る」「ものを自分で修繕する」こと。「器用仕事」とも訳される。元来はフランス語で、「繕う」「ごまかす」を意味するフランス語の動詞 “bricoler” に由来する。

ブリコラージュは、理論設計図に基づいて物を作る「エンジニアリング」とは対照的なもので、その場で手に入るものを寄せ集め、それらを部品として何が作れるか試行錯誤しながら、最終的に新しい物を作ることである。

ブリコラージュする職人などの人物を「ブリコルール」(bricoleur)という。ブリコルールは既にある物を寄せ集めて物を作る人であり、創造性と機智が必要とされる。また雑多な物や情報などを集めて組み合わせ、その本来の用途とは違う用途のために使う物や情報を生み出す人である。端切れから日用品を作り出す世界各国の普通の人々から、情報システムを組み立てる技術者、その場にあるものをうまく使ってピンチを脱するフィクション神話の登場人物まで、ブリコルールとされる人々の幅は広い。

ブリコラージュ - Wikipedia (via nakano) Via nakano.tumblr

ぼくも実現力のない正論は寝言だと思っている。

希望は突然やってくる
2009-05-23 (via atm09td, tadaki) (via appbank)
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あたしが小学5~6年生だったときの担任・マツダ先生(仮名)は、クラスで話し合うとき生徒にたったひとつのルールを課しました。そのルールとは、「意見を言うときは、必ず理由を言わなければならない」というもの。これは鉄の掟で、例外は許されませんでした。今にして思うとこれはすばらしい教育で、あたしはマツダ先生にものすごく感謝しています。

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こうやって丁々発止で説得し合ううちに、けっこうみんな、最初とは意見が変わっていくんですよ。「自分はドッジボールが好きだけど、当てられて嫌がる人がこんなにいるなら、バスケの方がいいかな」とか。「ソフトボールがやりたかったけど、言われてみれば学校のグローブはボロいし数も少ないし、別の種目の方がいいかな」とか。いろんな角度から意見とその理由を発表し合って、考えに考えて、意見が出尽くしたところで「では採決を」と持って行くのが、マツダ先生のやり方でした。

これが当たり前だと思ってたんだよね、小学生時代のあたしは。ところがいざ中学校に入ってみると、そこでの「話し合い」はこんなていたらくだったんです。

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なんちゅう幼稚な意思決定方法だ、と12歳のあたしは思ったね。こいつら小学生以下かと。これじゃ各自がなにも考えずに「ぼくのわたしの好きなもの」を選んでるだけで、意見を交わしたり考えたりっていうプロセスがゼロじゃん。自分と違う視点に気づくチャンスすらなく、それぞれセルフィッシュに「(自分が好きだから)これがいいでーす」と手を挙げるだけで、こんなの何の意味があるんだよと。

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そんでもって、意見交換で相手を説得するには根拠が必要なんです。上の方にも書いたけど、根拠を挙げようと思ったら、「ぼくは/わたしはこれが好きだから、みんなこれに賛成するべき」なんて小学生ですら恥ずかしくて言えなくなります。たとえタテマエでもいいから、「なぜこれが集団の構成員全体にとって有益なのか」を示さなければならなくなるわけで、全員が頭をひねってその「なぜ」を考えるうちに議論が深まり、より考え抜かれた意見が形成されていきます。そこまでやってから決を採ってこその多数決でしょ。

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結局はマツダ先生が偉かったってことになるんでしょうけど、ああいう議論のしかたの教育を日本じゅうの小学生が受けられるようにしなくちゃいけないと思いますね。ゆとり教育の見直しで算数だの英語だのの時間を増やすのもいいけど、こういうところにももっと力を入れていく必要があるとあたしは思ってます。

マツダ先生(仮名)の思い出、あるいは議論の仕方を習ったことのない人はやっかいだということ - みやきち日記

(via dorelax)

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それにしても、あんな騒ぎになるとは思いもしなかった。会見で石原氏のことを言えばその場が一気に盛り上がり、和むだろうと考えていただけだ。会見を御覧になった方はお分かりだろうが、私はテレビ映えしない。だから言葉の上で何か面白いことを言って切り抜けないことにはどうしようもない。だからああいうことを言っただけ。それがメディアの作ったストーリーによって思わぬ大きさに膨らんでしまった。

だがそもそもは、作家が言いたいことを言い合った、ただそれだけだ。作家というものは昔からさまざまな形でぶつかったり、反目したりしてきた。文学上の論争のこともあったし、私怨(しえん)に近いこともあった。まっとうな作品批判から相手の生活や容姿を嘲(あざけ)るようなものまで、熱心に、幅広く行われてきた。時には言葉だけでなく肉体的な暴力に発展する場合まであったのだ。

今回は言葉の上のこと。なのにそこへメディアが集まった。まるで事件現場に群がるように。つまりいまの日本というのは、作家の言い合いに過剰に反応するほどにまで、ものが言いづらい世の中なのではなかろうか。だから好きなことを言う人間を珍しがっているのではないのか。そのあたりを、人の言い合いを流すだけのメディアは、いったいどう考えるのか。私はネットをほとんど知らないが、ブログやツイッターで言いたいことを言っているように見える日本人は、実は言いたいことを出し切れていないのかもしれない。この点を分析する能力は自分にはない。ひょっとすると、言いたいことを自由に言っている石原氏や私は、古いタイプの書き手なのだろうか。(たなか・しんや、作家=「共(とも)喰(ぐ)い」で第146回芥川賞)

芥川賞に選ばれて:言いたいこと、あの夜と今=田中慎弥 - 毎日jp(毎日新聞)

(Source: burnworks)

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ジャクソンポロックはAbstractExpressionism(抽象表現主義)と呼ばれる絵画運動の代表的な人になります。抽象表現主義は第二次世界大戦以降にアメリカを拠点におこった運動で、アートの中心地がヨーロッパからアメリカのニューヨークに移るきっかけになった重要な運動でもあります。ポロックの絵がなんであそこまで抽象的になって、ここまで有名になったのでしょう?

ポロックの絵は、美術歴史的にもかなり重要なのです。
カメラと映画は1800年代後半に普及し始めました。1910年代以降からHollywoodなどの誕生で、映画がとても人気になりました。そうすると、それまでリアルに見たものを書こうとしていたアーティストたちはとたんに何をしたらよいのかわからなくなったんだと思います。正確に物を写す技術は人間の手なんかよりも機械のほうが優れてますから。

そこでクレメント、グリーンバーグという、1940年代とても影響力を持った美術評論家がジャクソンポロックやほかの抽象表現画家をとても評価し、新しい美術の方向性を示した論文をいくつか書きました。
彼の論文を簡単にまとめると以下のような内容です。

1.アート(特に絵画)は、そのミディアムの特徴を追求するべき。絵画だったら、絵画の特徴である平面を追求したものを作り上げるべきだと考えました。
2.アートは結果より、プロセスを大事にしよう。
3.アートはアバンギャルド(おもに、彼にとって抽象絵画のことを言う)でなくてはいけなくて、抽象絵画じゃないもの(とりあえず具象絵画って呼ばせていただきます)は、Kistch(キッチュ)、(であってアートではない。
(ミディアム=彫刻、油絵、などの美術のカテゴリー)

彼の論文の中で頻繁にハイアートとローアートという単語が出てきます。簡単に言うとハイアートとは美術館でかざられるような”まじめ”なアートで、ローアートはKistch、宣伝なんかに使われている大衆向けの「アート」ようです。たとえばポスターや商品のラベル、漫画などです。さらにグリーンバーグは具象絵画はすべてキッチュとしたのでグリーンバーグの定義によれば、ダヴィンチの絵も具象絵画なのでローアートにいれられます。(日本はアメリカに比べて、歴史的な違いからにアートをそのようなのわけ方をするのはなじみがないかもしれません。)
グリーンバーグの論文はこのハイアート(抽象絵画主義に代表されるアート)に大衆向けアートいわゆるローアートをはっきりと区別する内容でした。

なぜグリーンバーグはそうまでしてハイアートとローアートをわけたがったのか?
それは、当時ロシアやナチスドイツがアートを使って政府の社会主義政策を宣伝していたためです。そういった社会主義国では、抽象絵画を禁止して社会主義リアリズムなどの「リアル」な表現の絵画を国の正式な美術のスタイルにしました。リアルな表現を使った絵画のほうが、すべての人に受け入れられやすくわかりやすいですよね?社会主義の、”平等”を唱える国家に最適のスタイルです。と同時に、政府が国民に伝えたいメッセージを伝える使われやすいスタイルでもあったのです。
スターリンやヒトラーを偉大な指導者のようにかいたり、愛国心をあおるような絵画をかいたり、そういった絵画は抽象的にはなかなかかけません。早く、簡潔に政府の伝えたいメッセージを国民に伝えるには具象表現があっていたのです。グリーンバーグは、アートだけはそういった政府の影響をうけない、アバンギャルドなものにしたかったのだと思います。抽象主義ならば、すべての人に理解されずらいスタイルなので政府にいいように使われないと考えました。だから抽象表現的なアート以外はアートとして認めなかったのです。



Boris Vladimirski,”Roses for Stalin”(スターリンに花束を) 1949

↑は社会主義リアリズムのスタイルで描かれた絵画です。子供たちが笑顔でスターリンに花束をわたすシーンです。この絵でスターリンは白い制服きちりと着て、とても清潔なイメージです。とても堂々として、先を見据えたようなたのもしい描かれ方をしています。スターリンが立派なリーダーであるというイメージと同時に、子供にもやさしい父親的な面ももっている親近感の沸けるリーダーだというメッセージを国民に伝えようとしているのが分かります。たしかに抽象絵画では、このような具体的なメッセージはかけませんね!(^^)

しかし、皮肉なことに抽象主義の表現もアメリカ政府によって政治のために使われてしまいました。アメリカは民主主義、自由を唱えます。「アメリカでは、こんな自由な表現が許されるんだぞ!」とアメリカの宣伝に使われてまったのです。

現代美術は勉強すればおもしろい(愛) | ジャクソンポロック (via petapeta) Via nakano.tumblr

来月暮れに、アメリカから旦那が帰ってきます。

 そんな話をしながら次男が言った言葉は…

 「お父さんとは深い話をしたことがない」

 まだ17歳とは言え、バイトの先輩やら友人やらと、

 青臭いながらも…人生観について語り合ったりするそうです。

 2年間海外赴任して、また子供たちと大きく距離を開けてしまいました。

 母子カプセルが頑なまでに構築されてるという事に、

 気付いてないのは旦那だけです。

 
 「母子カプセル」というのは・・・

 カプセルに入ったように、外界からの刺激を避けて、相互に依存しあってる母子関係の事です。

 母子カプセルが発達する条件としては、

 ①不幸(孤独)な母親  ②父親機能の不在  ③厚すぎる家族境界
                   
 (斉藤学さんの「家族依存症」から)…なのだそうです。

 確かに、母子密着は、ある時期から子供にとっては苦痛でしかなくなります。

 カプセル化した母子関係の中で、母親は子供の自立を妨げ、

 拘束しようとします。子供はそこから逃れようと必死になり、

 それが問題行動として現れるそうです。

 それを解決するのが「父親機能」の役割ですが…。

母子カプセル - 愛をさがす毎日 (via nakano) Via nakano.tumblr

hyperf:

Golden Ratio

(Source: shanetron)


人生は短いですから、頭の固い人と付き合うひまはありません。
私は理解してくれない人と出会っても、さらっと流すようにしてきました。
そうすることで、気の合わない人には
あまり出会わずにすむようになってきたかもしれません。

ほぼ日刊イトイ新聞 - 糸井重里からデイヴィッドへの7つの質問とその回答。 (via kogure) Via ネタフルバード

ヒゲダンスで使用されたBGMはテディ・ペンダーグラスの「Do Me」のベースラインをサンプリングしたものだが、これは当時ソウル・ミュージックを好んで聴いていた志村が探し出して推薦したものである。

志村けん - Wikipedia

2009-07-24

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